ブックカバーチャレンジ第二弾。5冊紹介。
1。THE STUDY OF COMME des GARCONS 南谷えり子
筆者はELLE Japon編集長経てファッションライターで、comme des garconsを熟知した考察が面白い一冊。
1969年のブランド設立から現在にいたるまで、強烈な支持から嘲笑まで、両極の評価に晒されてきた。新しい衣服の捉え方を突きつけ、モードの価値観の入れ替えを図るアンチファッションの旗手としてのコムデギャルソン。
ファッションデザインの要素は、形、素材、色。服の形は左右非対称。不安定なバランス。一枚のパターンで形成するという合理的な展開で新たなデザインを生み出す。その手法は建築にも大いに通じるものがある。
慶應大哲学科卒の川久保玲は正式なファッションのトレーニングを受けた経験もない。「ビジネスもクリエイションの一環です」と言い放つ姿勢もいさぎよい。
2。我輩は施主である 赤瀬川原平
筆者は美術家であり、物書きであり、自身の家づくりをエッセイとしてまとめた一冊。今でこそ建築家として名を馳せる藤森照信氏とは「路上観察学会」というゆるーい会の同志で、ひょんなことから家を建てることになった。
筆者の人柄が文面から溢れておりほのぼのとする一方、施主の視点が新鮮で、日々設計する者としては初心に立ち戻らせてくれる。そんな一説を幾つか紹介。
「。。。家を建てるということは、国家のようなものが設立、運営され、首相が建築家、建設大臣は棟梁、国王といえるのが施主だ。。。」
「。。。土地というのは元々そこにあるもので、持ち主がいるというのが理不尽で納得がいかなかった。。。土地というのは実は全部中古品なのだ。。。」
「。。。実印とは血判みたいなもので、朱肉の色が血管を通して心臓に直につながっていて、押すたびに手が震えて何十回も押すにつれて貧血で倒れそうになった。。。」
「。。。地鎮祭が学芸会みたいで恥ずかしい。。。」
「。。。本当に必要なものなら経済的な切り詰めが働くが、そうではない場合計算が働かなくなり、お茶室にしろ、カメラにしろ、余分な力が注ぎ込まれるのを口を開けて待っている。。。」
完成した家は「ニラハウス」。業界でも有名な建築となった。筆者は2014年没。
3。ペルソナの詩学 かたり ふるまい こころ 坂部恵
自身も哲学者である筆者が、先人である西田幾多郎や和辻哲郎らの遺産を、生きた日常のことばによって再解釈するというもので、建築家の作品言説にもよく登場する一冊である。(前回の「いきの構造」同様、これも昔読んだときは十分理解できずの再読、、、)
「かたる」と「はなす」の違いを考えたことがあるだろうか。辞書ではこうある。
【語る】考えなどを言葉で一つ一つ伝える
【話す】声に出して言う、口で言う
筆者は「かたり」が「はなし」より一段上で統合の度合いが高いのだと。話すは「離すこと」、語るは「形-ること」と結びつくのだという一説は府に落ちる。
また、「ふるまい」については「ふり」+「まい」であり、元来「ふりをする」こと。つまり、模倣再現を意味する。
人間の「ふるまい」一般が元来、二重構造的に「ふり」のきっかけを含んでいる。自然なふるまいなるものがあって、その上に演技の契機がつけ加わるのではないのだ。
「こころ」については、身体と精神、デカルトの心身二元論に触れねばならない。デカルトは、あえて別々に考えたが、物心の間に相互関係が働いているため、物質と精神はつながっている。この二つがつながっているということは、心と身体はひとつである。つまり身体のどの部分かに心は存在すると考えるられるなら心身一元論の方が正しいと思う。
「人格」を解釈するのに以下先人たちの言葉を引用しているが、これはもう少し時間を掛けて理解してみようと思っている。(難しい、、、)
西田幾太郎 「自覚とは、無にして有を限定するもの」
ランボー「私は一個の他者である」
和辻哲郎「人間一般は他者と他人を意味する」
4。火山のふもとで 松家仁之
これも再読。過去にクライアントの奥様からご紹介いただいた一冊で、アトリエ設計事務所がモデルになっていること、その描写が設計従事者に響くもので一気に引き込まれた。
物語はフィクションだが、そのモデルが吉村順三事務所であること、国家プロジェクトをいくつも手がけるというコンペの競合相手は丹下健三であることは容易に想像でき、実在した建築家フランクロイドライトやアスプルンドの実名も出るところもくすぐります。
くすぐってくる文面もいくつか紹介。
「。。。霧の匂いに色があるとすれば、それは白ではなく緑だ。。。」
「。。。どこまでも具体的であろうとし、クライアントを専門用語で煙に巻くようなことはけっしてしなかった。。。」
「。。。机も椅子も撫でさすることを求めてくるようななめらかさで、壁の漆喰にもコテのあとひとつ残っていない。。。」
「。。。どこか明るく澄んだ印象のある飛鳥山教会のなかで、十字架のたたずまいはごく自然で、空間を支えて動じない消失点のような役割を果たしていた。。。」
「。。。建築家が手がけたものは、大きな艶のある声で歌いあげるみたいなのが多いじゃないですか。でも先生の建築は、聞こえなければそれでいい、というぐらいの声というか、小さな声をつつむ小さいものというか。
そもそも信仰の声はひそかに語られていただろうからね。原始キリスト教の時代だって、抑圧された信者は、洞窟のなかの教会で囁くように語りあっていただろう。。。」
「。。。台所仕事や洗濯、掃除をやらないような建築家に、少なくとも家の設計は頼めない。。。」
「。。。講義中に教授が窓を「開口部」とよぶたびに可笑しくなった。人間でいえば、目、耳、口、鼻、肛門といった各種の穴が開口部で、つまりは解剖学から借りてきた言葉なのだろうが、人間にせよ建物にせよ、可笑しさにかわりはない。。。」
「。。。細部と全体は同時に成り立ってゆくものなんだ。受精卵が細胞分裂をくり返してヒトのかたちになるまでを見たことがあるかい。指なんていうのは、びっくりするぐらい早い段階でできあがる。胎児はその指でほっぺたを掻いたりもするんだ。開いたり閉じたり、生まれる何ヶ月も前から指を動かしている。建築の細部というのは胎児の指と同じで、主従関係の従ではないんだよ。指は胎児が世界に触れる先端で、指で世界を知り、指が世界をつくる。。。。」
「。。。アスプルンドはミーズやコルビュジェと同世代の人とは思えないわよね。彼らとちがって、未来より過去に視線が向かっていた人だって気がする。。。」
「。。。円のもつ全方位性は、回遊性は、じつに閉ざされたもので、外にひらかれ、外と行き来できるものにはなりにくい。宗教施設など、中心をもとめ、閉じてゆく場を必要とするときには円の求心性が有効だが、公共的なひらかれた空間では扱いが難しい。。。」
、、、、と、まあ他にも沢山ありすぎです。
ちなみに著者は吉村事務所出身の中村好文氏に自身の住宅を設計してもらっていると。
これは本というより、講演会で実際に建築家が語ったものを文字起こししたもの。
SANAAは、金沢21世紀美術館とROLEXラーニングセンター、ルーブルランスといった作品を紹介しながら、建築と場所のつながりや調和、連続性を語っている。
環境とは形態的なことだけではなく時間的なこと、人が活動している風景などが混ざっていう。どうすれば建築が環境につながるかを常に意識しているという。
手塚さんは、デザインは自身の体験から来ているものが多い、と語り、トレードマークの自身の青Tシャツ、奥さんは赤、娘は黄、息子は緑のくだりが面白い。
建築家がつくるものは大量生産ではないので完璧なものはつくれないがお気に入りの建築はできる。何が大事かといえば人の思い入れ。
建築をつくるのではなくその前に周りにどのような出来事をつくるか、から仕事が始まる。
アイデアはどこにでも転がっていてそれに気づくかどうか。という一説が印象的だった。
内藤さんは、東大退官時にお別れ会として最終講義が予定されていたのだが、その30分前に3.11が起こったことで、建築家として被災地に何ができるのか?ということを自問自答してきた。
建築の作品性や作家性が妙に鼻につく場合もある。図面に向かって設計することと被災地に向き合うことが上手く結びつかないことがあり、作品性や作家性の高い建物をつくることが嘘っぽく感じて講演できなかった時期があったという。
と、最近読んだ5冊の紹介でした。